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「世に人の恐るる嶺の槍の穂も やがて登らん我に初めて」「極楽の花の台か槍ヶ岳 のぼりてみれば見えぬ里なし」
日本のマッターホルン・槍ヶ岳。
このアルピニストあこがれの穂先3,180mに初めて立ったのは、江戸後期の山岳修行僧・播隆上人でした。
時に1828年7月、ウィンパーのマッターホルン初登頂より37年も前のことです。
その後、1880年に登った英国人ガウランドは、山頂からの景色を「ジャパニーズ・アルプス」と命名。
この名称は、やがて英国人ウエストン(1892年に登頂)によって世界に広められ、同時にMt.YARIの存在も世界の登山家に知られるようになりました。
その人物像からはちょっと信じられませんが、芥川龍之介もその槍ヶ岳に登っています。
1909年8月12日、東京府立三中の同級生3人とともに穂先を征服したのは17才の芥川。
その山行の様子は槍ヶ岳に登った記」「槍ヶ岳紀行」などの作品に見ることが出来ます。
4月の下旬に山小屋は営業を開始します。
山はまだ雪に覆われており、冬山用の装備が必要です。あまり知られていませんが、槍ヶ岳では標高3,000mから高低差1,500mのダイナミックなスキーを楽しむことができます。雪の多い年には6月頃まで滑ることができます。
雪解けが進み、雷鳥などの動物も見かけるようになります。雪の多い年はまだまだ残雪があり、雪の上を歩くことになるので要注意。アイゼンやピッケルがこの時期まで必要です。
梅雨の時期となり雨の日が多くなります。一部では雪が残っていることも多いが、草木が育ち、山が豊かな緑に覆われるようになります。7月の下旬から夏山の登山者が増え始めます。
一年で最も登山者の多い時期。週末には頂上までの登山道に行列ができることもあります。夏山シーズンですが、天候の悪い日は気温も下がるので要注意。
年によって異なりますが、標高の低いところから草木が赤や黄色に染まり始め、下旬には槍ヶ岳周辺も紅葉のピークを迎えます。天狗池の紅葉と湖に映る槍ヶ岳の姿は一見の価値あり。
10月の始めには一部紅葉も残っていますが、段々と気温は低くなり雪が降り始めます。比較的天気に恵まれることも多いですが、寒さへの対策は必要です。
山は再び雪に覆われ、登るためには雪山装備が必要となります。11月の始めには山小屋は営業を終了します。
前人未踏の3,180メートルの高峰。
僧・播隆が初めて槍ヶ岳を望見したのは、文政6年(1823)6月のことであった。飛騨山脈の霊峰・笠ヶ岳登山を試みた彼は、群山を圧してひときわ高くそびえる槍ヶ岳を眺め、その霊感に打たれ魅せられたのであろう。
天明6年、越中に生まれた播隆は、生涯のほとんどを一介の苦行僧として過ごした。混濁の世俗を捨て仏門に入ったはずの彼だが見たものは、やはり俗界同様のみにくい風潮がみなぎる宗門の内情であった。深山幽谷での修行に入った播隆は、やがて槍ヶ岳開山の悲願を抱くに至る。
天を突き刺すよう鋭峰の頂きに、清浄静寂な極楽浄土への道を発見したからにほかならなかった。
播隆の笠ヶ岳再興登山の頃、信州と飛騨を結ぶ最短の道として飛騨新道(飛州新道とも云う)が工事中であった。これより以前、岩岡村庄屋伴次郎や小倉村の中田又重郎らが飛騨高原郷の本覚寺の椿宗(ちんじゅう)和尚を訪ね新道開削のため飛騨側の協力者を求めていたが、協力者が得られなかったので信州側だけでも工事をしていた。したがって播隆は椿宗和尚を介して信州側の事情を知っていたと思われる。
文政3年(1820) | 飛騨新道着工 |
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文政4年(1821) | 飛騨新道小倉村馬口(まぐち)より一里奥の羽子沢(現・南小倉)の商人岩まで完成 |
文政7年(1824) | 上口(現・上高地)まで開通。しかし飛騨側は幕領であったため、なかなか許可が下りなかった |
天保6年6月(1835) | 飛騨側の工事許可され直に着工 8月完成 |
各地を布教して文政9年(1826)の夏、信州小倉村の鷹匠屋の中田家を訪れ、槍ヶ岳開山の宿願を述べたと思われる。以降、5回にわたる登山行のすべてに中田又重郎は案内を務めることになる。この年は途中までの登山にとどめ。もっぱら頂上へのルート研究に終始した。 初登頂は2年後の文政11年(1828)7月20日のこと。筆舌に尽くし難しい辛苦を重ねた2人が頂上を踏みしめたとき、5色に彩られた虹の環の中に阿弥陀如来の姿が出現した。感動的な御来迎の奇蹟(ブロッケン現象)である。
その後、松本郊外の浄土宗の玄向寺を知り度々世話になり槍ヶ岳に鉄鎖がかけられた時には播隆は玄向寺で病気で療養中であった。中田又重郎の協力がなければ槍ヶ岳開山はなかった。
播隆は開山のために一心不乱になった。槍ヶ岳の頂上にかける悲願は、 衆生済度のための開山にあった。己れを律し、ひたすら苦行に励む播隆の法話は民衆の心を打ち、開山の資へと結びついた。5回にわたる登山の末に彼はあとに続く者の安全を図り、一人でも多く登山ができるように、槍ヶ岳の岩壁に鉄の鎖を懸けるための浄財集めにも奔走した。
当時の鉄は今日では考えられないほどの貴重品であったにもかかわらず、信者達から、はさみ、包丁、鎌などが寄進された。鉄鎖は完成して小倉村へ運ばれたが、当時、凶作が続いたため松本藩は鉄鎖を懸けることを禁止。実現は4年後の天保11年(1840)に持ち込まれた。播隆は病を得て玄向寺で病気療養中であったが、又重郎ら信者達により鎖がかけられた。この時、播隆は55歳の高齢に達し、鉄鎖の懸垂を見届けるかのように大往生した。
播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山した。”日本近代登山の父” と呼ばれている英人ウェストンが日本アルプスを世に知らしめるより65年も前のことである。
播隆が頂上に祠を建立し、後に来る者のために危険な個所に鎖さえ準備した物語は、「大いなる初期アルピニスト」の尊称を授けられてよいのだが、彼の功績を知る人は余りにも少ない。
いま、JR松本駅前から鋭峰を見つめる上人の孤高のブロンズ像は、「人はなぜ 山に登るのか」という永遠の問いに無言で答えているかのようである。
天明6年(1786) | 越中国新川郡太田組河内(かわち)村(現・富山県富山市河内)に生まれる |
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文化元年(1804) | 19才で出家、京都・大阪で修行する |
文政4年(1821) | 飛騨高山郷岩井戸村杓子の窟で修行 |
文政5年(1822) | 再度、杓子窟で参籠し越年す |
文政6年(1823) | 笠ヶ岳登山道を修復して登山 |
文政7年(1824) | 笠ヶ岳4回目の登山で、道標に石仏、頂上に銅像を安置し、対峙する槍ヶ岳を望み槍ヶ岳登山を決意した |
文政9年(1826) | 槍ヶ岳第1回登山(槍の肩付近まで登り、登路を視察) 案内:中田又重郎 |
文政11年(1828) | 7月20日 槍ヶ岳初登頂 8月 1日 穂高岳にも登頂 |
天保4年(1833) | 槍ヶ岳第3回登山 |
天保5年(1834) | 槍ヶ岳第4回登山。槍ヶ岳に「善の綱」をかける |
天保6年(1835) | 槍ヶ岳第5回登山 |
天保11年(1840) | 槍ヶ岳に鉄鎖がかけられ、大願成就する 10月21日 美濃国太田にて大往生。55才 |
播隆祭実行委員会発行の小冊子はこちら(PDFファイル 5.6MB)
槍ヶ岳山荘をベースに豪快な山岳スキーを楽しめます。
槍沢・飛騨沢あるいは大喰岳(3101m)頂上からの壮大なダウンヒル、足を延ばせば天狗原から横尾本谷へ滑り込むコースも魅力的です。
槍ヶ岳周辺のスキーはGWの頃から6月末までまだまだたっぷり楽しめます。
槍沢コース | 槍ヶ岳スキーの一般的コース GWの頃なら槍の肩から槍沢ロッヂまで標高差1250mのダウンヒル、6月に入っても殺生ヒュッテから大曲りまで滑走可能です。4月末から周辺の山小屋も営業しているので安心して楽しめます。 |
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大喰岳カールコース | 超お奨めコース 3101mの山頂から滑り込むコースは斜度も平均しているうえに槍ヶ岳周辺ではもっともも積雪の多い谷なので岩やブッシュも気にせずに6月末まで楽しめます。大曲り上部で槍沢コースに合流します。 |
飛騨沢コース | 新穂高温泉方面へ滑り込むコース 槍沢コースよりも下部まで滑走ができるうえにマイカーで直接アプローチできるので荷物のかさばる山スキーヤーには人気のコース。但し、残雪期には途中の山小屋が営業していないので体力のある人向き。 |
大喰岳北面コース | 上級者向けの軽くひと滑りをに楽しむには良いコース 滑り出しは相当な急斜面なのでかなりの度胸が必要です。クラスト・アイスバーン時、雪崩の恐れがある時はやめたほうがいいでしょう。 |
本谷コース | 槍ヶ岳から本谷右俣の広大なカールを結ぶツアーコース 槍ヶ岳あるいは大喰・中岳から天狗原へと滑り込み、氷河公園を登り返したあと本谷カールへ飛び込むロングコース。 |